プロジェクトNext:松尾一彦 × 打越岳 特別対談記事

松尾一彦 × 打越岳 特別対談記事

あなたと被災地をつなぐ「顔が見える支援」

Aiding survivors “face-to-face”    

 

”歌で大震災を乗り越える”

出会いから10年以上の時が経つ2人。
打越 岳は、3月に起きた大震災後すぐに災害支援団体を立ち上げ救援活動を行っている。そして「言葉にできない」の依頼。出会いから今日まで、そして、大震災を遠野ライブの直後に語ってもらった。


打越(以下:G) ライブとても良かったです。お疲れ様でした。

松尾(以下:M) お疲れ様でした。いきなりだけど、岳さんと出会って10年くらい経つのかな?

G 初めてお会いしたのは、あんべ光俊音楽旅団の宮古のライブの時ですね。

M あぁ~。

G あんべさんのお兄さんがいらっしゃった時でしたね。

M そうか!

G 9.11のテロより前だったと思います。それが今年で10年経ちましたから。

M 11,2年前かぁ。そんなに経ったんだ

G 早いですね

M 10年前にも歳とったなあって思ってたけど、今写真見ると若いもん(笑)。

G 今でも十分若いですよ(笑)。

M いやいや、髪もまだ黒かったしね。

G そう言えば、オフコースを解散して今年で何年経ちますか?

M え~っと、89年だから今年で22年だね。

G 確か初めてお会いした時に「The Night With Usのライブに行ったんですよ」って話をさせていただきましたね。

M うんうん。

G その時お話したのがきっかけで、お台場のABCライブにお邪魔させていただくことになったんだと思います。ジローさんから写真撮影とライブレポートの依頼をいただいて、それがABCのサイトにアップされたんですよ。

M そうだっけ(笑)?

G ジローさんとのメールのやり取りが始まったのもその頃で、ポンポコ山音楽祭にも同行させていただきましたね。

M そうそう。峰浜のね。

G そんなコトがありつつ、盛岡でのABCライブを企画させていただくことにつながっていったんです。

M そうか、そうか(感慨深げにうなずく)。

G 僕がオフコースを初めて知ったのは「やさしさにさようなら」という曲だったんですよ。

M うんうん(嬉しそうに)。

G 小学校5年生くらいの時でしたけど、ラジオから流れていたのを聴いてハマッてしまい、「さよなら」がヒットした時に「オフコースってこんなに売れてるグループなんだ」と改めて気がついて(笑)、中学の頃はずっとオフコースを聴いていましたね。

M (うなずきながら聞いている)

G でも僕、中学のときは悪ガキだったんですよ。オフコースを聴く悪ガキ(笑)。

M そういう話らしいんだけど、今は全くそう見えないよね(笑)。

G はい、さすがに少し大人になりまして(笑)。ああ、それで、オフコースのアルバムを「We are」までは発売日に買っていたんですけど、「over」は買わないでいたんです。

M 悪ガキだったから(笑)?

G あはは。そうです(笑)。でも、もうすぐ高校受験もあるし、両親や周囲の方々にずいぶん迷惑掛けたなぁって悪ガキなりに反省していたんですよ。ちょうどその頃、「そういえばオフコースの「over」っていうアルバムが出てたなぁ」と思い出して購入したんです。A面が終わってB面の「言葉にできない」を聴いた時に、松尾さんのハーモニカのせつなさになんだか無性に涙が流れてきて・・・。曲を聴いて涙がこぼれるなんて、その時が生まれて初めての経験でした。

M ん~。

G それがきっかけでまたオフコースが大好きになったんですけど、単に曲が好きというだけじゃなく、僕の人生を大きく変えてくれた恩人のような存在になっていったんですよ。

M おー、そうな風に好きになる人もいるんだね。

G 中学2年のときに初めてオフコースのコンサートに行ったんです。「over」ツアーの岩手県民会館でしたけど、とにかく音の大きさに驚きましたね。レコードで聴くソフトなイメージではなかったです。

M フフフフ。

G その時も「言葉にできない」のハーモニカとひまわりの映像に胸が熱くなってまた泣いて(笑)。

M うんうん。

G 当時は中学生でしたから、武道館10日間公演には行けなかったんですが、最終日の6月30日深夜にラジオ放送したライブ音源を録音してずっと聴いてました。

M そういえば、あったね。ラジオ。

G ただ、そのラジオ放送では小田さんが泣いた部分は差し替えられていたんですよね。

M そうかぁ。

G その後、ラジオのリクエストでは「NEXTのテーマ〜僕らがいた」がランキングに入ってたりして、シングルカットもされていない曲がリクエスト・ランキング上位に入っちゃう凄いバンドでしたね。

M どうもね、シングルカットをよく間違えるんですよ(笑)。

G 松尾さん、そう思ってたんですか?

M いや、僕は思ってなかったけど(大笑)。たとえば昔、加山雄三さんの「君といつまでも」がA面ではなかったっていう話があって、もちろんA面だった「夜空の星」も良いけど、「君といつまでも」がA面じゃないっていうのは今考えたら間違いでしょう?

G なるほど、そうですね(笑)。

M 他にも、ユーミンの「ひこうき雲」っていう曲もB面なんですよ。あんな良い曲が。

G へー。

M そういう間違いってよくあるんだよね。

G それで、その後にオフコース解散騒動があって、僕の中学でも署名運動がありました。

M 本当に?

G はい、ありましたよ。オフコースはそれからしばらく動きがなかったですけど、「The Best Year of My Life」が発売されて、いよいよコンサート・ツアーが発表されたときには、チケットを買うのに24時間並んだ記憶があります(笑)

M フフフフ、ごめんね。

G その後は大学生だったので、「as close as possible」と「Still」のライブには武道館の最終日まで行きました。89年の最後の武道館最終日に、要さんからオフコースの解散と東京ドーム公演のアナウンスがあったんですよ。

M そういうのがあったんだ。

G たしか武道館の最終日から東京ドームまでは、そんなに間がなかったですよね?

M スタッフがどうしても東京ドームでやりたいって言ってやることになったんだよね。

G その後の小田さんの活動は知っていましたけど、大変失礼ながら、松尾さん、仁さん、ジローさんの活動は知らなかったんです。

M 僕らはほとんど活動できてなかったですね。

G その後、10年ぶりくらいにあんべ光俊さんのライブに行ったら、ジローさんと松尾さんが一緒にやっているのを知ってとても驚きました。松尾さんはご存知ですけど、あんべさんと僕は親戚同士なんですよ。僕が小学生の頃に祖母から教えられたんです。話が脱線しちゃいましたけど、あんべさんの宮古ライブで楽屋に挨拶しに行ったとき、僕の目の前を松尾さんがスーっと通り過ぎて行かれたんです。

M その時がさっき言ってた初めての対面だったんだよね

G はい。その時がきっかけでABCのライブを盛岡で2回、遠野で1回開催することにつながりましたね。

M その辺のイベンターよりも良いかもよ。

G いえいえ、素人ですから全部教えていただきながらでしたよ。とくに初めての盛岡のときはプロモーションのためにテレビにも出てもらったりして。

M あ~、軽くギターなんかも弾きながらね。

G 普通ならやってもらえないこともしていただいて、そのお気持ちが嬉しかったです。

M その頃、ABCのそういう部分をやってくれるひとの中で、僕らは信頼の出来るひとに出会えていなかったから、多分、岳さんが初めてに近いひとだったんじゃないかな。信頼できるひとっていうのは。

G それは光栄なお話です。

M そういう信頼関係が出来たよね。

G 前置きが長くなってしまいましたけど、本題の復興支援レーベル「project Next」の話に移りますね。今日までただ無我夢中でやってきましたけど、振り返ってみるとレーベル設立のきっかけになったのは、今年5月21日に盛岡で行なわれた松尾さんのライブでした。支援活動で知り合った山田町の友人を「たまには音楽でも聴きに行こうよ」って連れて行ったんです。そのときに「言葉にできない」のハーモニカを聴いて、29年振りに胸が熱くなってしまって・・・。二度と生で聴くことはないと思っていた松尾さんのあのハーモニカでしたから。小田さんが「言葉にできない」をカバーしても、あのハーモニカだけはカバーすることはできないんですよ。その松尾さんのハーモニカを聴きながら、「この音源を支援活動のために使わせて欲しい」って思って。今思えば本当に無謀なことでしたけど、ライブの打ち上げの席で松尾さんに音源を使わせてほしいとお願いしたんですよね。松尾さんは僕の話を最後まで聞いてくださいました。配信に至るまでには、著作権管理や音楽配信の方法、それにレーベル設立など、クリアしなければいけないことがいっぱいありましたけど、松尾さんには音源提供だけでなく、多くのことを丁寧に教えていただきましたね。また、忙しいスケジュールにも関わらず、すぐにスタジオ録音までしてくださいました。

M 決めたことはすぐにやらないと尻つぼみになってしまうからね。

G でも、本当にすぐに動いてくださいましたよね。そんな松尾さんの想いに応えるためにも、どのように契約するのが一番良いか、どうやって配信するか、とにかく精一杯やることしか考えませんでした。運が良かったのは、支援活動に賛同してくれる顧問弁護士に巡り会ったことと、支援活動でお世話になっていたAmazonさんに楽曲配信を相談できたことでした。

M そう、音楽配信って色々なことをクリアする必要があるからね。たとえばCDはどんなお店でも販売してるじゃない。実は配信も大体同じで、配信できるところはできるだけ多い方が良いからね。その辺は積極的に動く必要があるからね。

G 僕は香港のみなさんに向けた御礼ビデオを制作してYouTubeでも配信したかったので、著作権の問題をクリアしておくことも難しかったのですが、そのビデオのコンセプトに松尾さんの「言葉にできない」はぴったりだったんです。

M そうでしたか。

G 僕は三陸沿岸への支援活動を長く続けていきたいので、この配信を通じてプロジェクトNextの活動を多くの方々に知っていただければと願っています。被災地の現状から、僕が今一番心配しているのは、震災から時間の経過とともに支援の格差が大きくなっていることです。行政は一律平等に支援を行なうことが基本ですけど、被災地の事情は複雑で、支援に恵まれる方と支援に恵まれない方がいるんです。これはほとんどテレビでは報道されていませんけど現実にあることなんです。行政の支援は上から下に流れる構図で末端に支援が届かないケースが多いので、プロジェクトNextは末端に直接支援を行なっています。

M これは誰かがやらなきゃいけないことですよね。

G はい。ただ、支援活動を継続するにはどうしても活動資金が必要で、それを寄付に頼らざるを得ないんですが、それだけでは長く続かないと思ったので、自分たちで収益活動を行なってその収益を支援活動に充てることを考えたんです。そのために立ち上げたのが「一般社団法人プロジェクトNext」で、その収益活動のひとつが復興支援レーベル「project Next」ということになります。

M 歯科医院をやりながら支援活動とレーベル立ち上げって、想像以上のことだと思いますよ。

G この復興支援レーベル「project Next」は、松尾さんをはじめご賛同いただいたアーティストのご厚意で成り立っていますから、アーティストの誠意には僕も誠意で応えたいと考えたんです。僕を信用して原盤権を預けてくださったアーティストの方々に、契約上の不利が少しでも発生しないように顧問弁護士と十分に検討を重ねました。専門的な話になるんですけど、これだけアーティスト主体の契約内容は商業レーベルではあり得ないと思います。この部分が復興支援レーベル「project Next」の最大の特徴かもしれません。営利目的ではなく、復興支援だけが目的ですから。

M 岳さんからこの依頼をいただいた時は、正直言って僕も一瞬迷いましたね。でも、僕にしてはかなり早い結論だったと思います。悩んだ理由は、岳さんのことを信用していないとかじゃないんですよ。自分の中でオフコースを少しずつ離そうと考えていたところで、もっとオリジナルを作ってソロ活動を認知してもらおうって思っていたからね。それに、「言葉にできない」って曲も色んな意味で存在が大きいから。でも、岳さんからの依頼だったし、信頼しているから引き受けたと思うね。「岳さんに任せた」ってね。岳さんからはライヴ音源でってお話だったけど、音源を聴いてみたらバランスが悪かったし、思い切ってスタジオで録り直すことにしたんですよ

G でも、そのお陰でライヴよりピュアな感じに仕上がっていて良かったと思います。松尾さんが単純にオフコースをコピーした作品ではないですね。

M 「言葉にできない」という楽曲の大きさだね。

G 「言葉にできない」という楽曲の大きさは、一般的な楽曲と根本的に次元が違いますね。それを音源として提供する、それを世に出すという部分では、松尾さんには大きな葛藤があったと思いますが、それよりも復興支援のことを優先してご決断下さったことに本当に感謝しています。

M 岳さんにはこの活動は無理せずに続けて欲しいと思います。次がジローになるか、あんべになか分からないけど、もっと他のね、クラシックの人とか演歌とか幅広くやって欲しいと思います。こういう音楽の力での支援には色んなアーティストに参加して欲しいからね。

G そうですね。僕もそう思います。そのとっかかりを皆さんにやっていただいた感じです。他のアーティストの方に「これなら自分にもできる支援だ」って思っていただけたら良いですね。

M 少しでも長く続けて欲しいと思います。これからも頑張ってください。

G ありがとうございます。三陸沿岸の復興を次の世代につなげるためにも精一杯頑張ります。

この対談は松尾一彦オフィシャルマガジン「Untitled」に掲載された記事からの転載です。